子供の頃の友達選びって、
「あの子、可愛いから友達になりたいな」とか、
「一緒にピアノ教室に通ってるから、仲良くなろう」とか、
けっこう単純な理由で、友達になっていたんじゃないかなって、思う。
友達選びが、厳しくなった?
歳を重ねるにつれて。そして、マルタに移住してから特に。
友達選びの基準が、厳しくなったように思うの。
「あ、まさに、この人と仲良くなりたい。もっと知りたい。時間を過ごしたい」って思える人が、
本当に、少ないんだよね。
素敵な人が少ない。って言いたいんじゃなくて、
どんなに素敵だろうと、自分と合わなければ居心地は良くないし、
ドンピシャで、「あ、この人だ」って思う人が、あんまりいないんだよね。
基準が、できたから?
それは、ある意味、いいことだとも思ってる。
自分の友達選びの基準が、ハッキリしたからなんじゃないかな。って、思ってるの。
もう、パーティーを楽しむだけの友達はいらないし、
聞いてるふりをして、私の話を聞いてくれない友達はいらないし、
私のやっていること、やりたいことを応援してくれない友達も、いらない。
「これが、心地いいってことなのか」っていう感覚も知ったから、
その基準の心地よさに達しないと、それが楽しい時間だったとしても、本物じゃないって、思ってしまうんだよね。
本物とだけ、過ごせるわけではなくて
基準がはっきりするのはいいことなんだけど、
自分に言い聞かせているのは、
すぐに切り捨てたり、合わない人だ。っていうレッテルを、貼らないこと。
直感って結構当たってるから、きっと、「あ、この人は合わないな」って思った人は、多分そこから大きく、関係が発展することは少ないんだとは思う。
でも、そんな人とでも、いい時間は過ごせるし、
いつか大きく、その人に感謝するときがくるかもしれない。
その人が、自分を攻撃したり、マイナスなことを言ったり、嫌な気持ちにさせたり、
自分に害を与えない人である限りは、流れに従うままに、
関係は続けるべきなんだろうなとも、思ってるの。
パーフェクトなものだけが、必要ではないし、
私たちの人生、毎日の一瞬一瞬は、全然パーフェクトなんかじゃないよね。
パーフェクトな時間なんて、ほんの、数えるほどのじかんなんだって思う。
経験するほど、選択は厳しくなる
友達に限らず、いろんなことに言えることだと思うけど、
いろんなことを経験すればするほど、選択は厳しくなると思う。
どんな友達が合うのか、知っていればいるほど、
本当の愛を、知れば知るほど、
どんな場所があるのか、そして、どんな場所が自分に合うのかを知れば知るほど、
自分がどんな人間で、何を求めているのかを知れば知るほど、
選択は、厳しくなるよね。
これは選んじゃダメ。ってものが、ハッキリと分かるようになるから。
選びすぎず、でも、選びたい
選り好みしすぎてたら、結局は何も手に入らない人生になってしまうと思うんだけど、
でも、『選ぶ』ことは、大切だよね。
自分に来たものをなんでも受け入れて、流されたままに生きてたら、
それはたぶん、自分が望むものじゃないから、
幸せは感じにくい。
幸せになるためには、
いろんなことを経験して、知って、自分のことを知って、
自分が求めているものにセンサーを張り巡らせて、
しぜんな流れに逆らわない程度に、“選び”続けることだって、思うの。
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